はじめに
看護の現場に長くいると、
人を言葉で攻撃する場面に出会うことがある。
表では普通にやり取りしていても、
少し場所が変われば、別の言葉が飛ぶ。
「あの人はこれもできない」
「あの指示は危ない」
「ここでは看護のスキルなんて要らない」
そうした会話は、
珍しいものではない。
もちろん、
どの職場にも不満や評価はある。
ただ、看護の現場では、
それが少し濃く出やすいように感じることがある。
なぜ言葉での批判や避難が起きるのか
人が人を言葉で攻撃するとき、
そこには単純な悪意だけではなく、
いくつかの要素が重なっていることが多い。
一つは、ストレスの逃がし先としての言葉である。
看護の仕事は、
責任が重く、忙しく、
しかも小さなミスが大きな問題につながりやすい。
そうした環境では、
感情をそのまま抱え続けることが難しい。
その結果として、
不満や緊張が、
誰かへの批判として外に出ることがある。
もう一つは、
正面からぶつからない文化である。
本当に伝えるべき相手に直接言うのではなく、
少し離れた場所で言葉にする。
これは看護に限った話ではないが、
閉じた職場ほど起こりやすい。
看護の現場で起きやすい理由
看護の仕事には、
言葉での攻撃が生まれやすい構造があるように思う。
たとえば、責任は大きいのに、
裁量には限りがある。
現場では判断が求められる一方で、
最終的な決定権は自分にない場面も多い。
この責任と権限のずれは、
少しずつ不満を溜めやすい。
加えて、
人間関係が固定されやすいことも大きい。
病棟は小さな共同体に近い。
同じ相手と、同じ空気の中で、
繰り返し働くことになる。
逃げ場が少ない環境では、
感情も循環しやすい。
その結果として、
批判や陰の会話が、
文化のように定着してしまうことがある。
行動に移る人と、言葉にとどまる人
現場で誰かが不満を口にしていても、
実際に環境を変える人は多くない。
配置を変える。
上に正式に上げる。
異動する。
辞める。
そうした行動には、
当然エネルギーが要る。
だから多くの場合、
言葉は「変えるため」より、
「抱えたものを軽くするため」に使われる。
つまり、問題提起というより、
感情処理に近い。
そう考えると、
言葉で攻撃の多くは、
改善のための言葉ではなく、
場の中で自分を保つための反応とも言える。
長くいると麻痺していく
こうした空気に長く触れていると、
人は少しずつ慣れていく。
最初は違和感があったものが、
そのうち背景音のようになる。
自分は関わっていないつもりでも、
繰り返し見聞きするだけで、
感覚は少しずつ鈍っていく。
それはたぶん、
特別なことではない。
看護の現場に長くいる人なら、
多かれ少なかれ、
似た感覚を持つことはあると思う。
少し離れて見えるもの
ただ、完全に慣れきっていないからこそ、
ときどきその空気が奇妙に見えることもある。
誰かが誰かを批判する。
別の誰かが同調する。
その場では少し気が晴れる。
でも、何かが根本的に変わるわけではない。
また別の日に、
似たようなことが繰り返される。
その循環を見ていると、
個人の性格というより、
構造そのものの問題なのだと感じる。
おわりに
看護の現場では、
技術や知識だけでなく、
人間関係の空気の中で
自分をどう保つかも問われる。
そして、この消耗は案外大きい。
人が人を言葉で攻撃する場面に長く触れていると、
それは背景音のようになり、
いつのまにか自分の感覚まで鈍っていく。
でも、本当に怖いのは、
誰かの言葉の強さより、
そうした空気を「普通のこと」として受け入れてしまうことなのだと思う。
陰で誰かを下げること。
不満を言葉で回し続けること。
何も変わらないまま、
その場の空気だけが濁っていくこと。
それは改善でも前進でもなく、
ただ消耗が循環しているだけだ。
だからこそ、
その輪に深く入らないこと。
全部を真に受けないこと。
少し距離を取って、自分の感覚を守ること。
看護の現場で必要なのは、
技術だけではない。
濁った空気に自分まで染まらないこと。
そのことの方が、
ときにずっと大事なのだと思う。
すべての記事は無料でお読みいただけます。
このリンクは「支援」のための入り口です。
小さな感謝とともに、静かな旅をつづけています。──孤岳より
※codoc(Stripe社提供)を利用しています。


コメント