ただ“自分のままで”生きることを許すまで

エッセイ|コラム

はじめに

この文章は、
「ちゃんと生きているはずなのに、どこか噛み合っていない」
そんな感覚を抱えたまま、時間だけが過ぎてきた人に向けて書いている。

夜勤明けでも人と会える。
誘われれば応じる。
生活は回っているし、社会的にはたぶん“問題ない側”。

それでも、
刺激や消費の輪の中に長くはいられず、
結局は静かな時間へ戻ってしまう。
その選択に、理由のない不安が滲む夜がある。

この記事では、
深夜ラーメンという取るに足らない出来事をきっかけに、
「自分は普通ではないのかもしれない」と気づいた瞬間と、
その感覚を切り捨てずに見つめ直していく過程を綴っている。

なぜ「普通になろう」としてきたのか。
自分の集中や快楽のかたちが、社会とズレて見える理由。
そして、そのズレを“壊れた証拠”として扱わなくていいのではないか、という問い。

答えを述べる文章ではない。
経験を整理し、感覚を言葉に置いているだけだ。

もし人生のどこかで、立ち止まって自分を見直したことがあるなら、
遅れて引っかかる一行が、きっとある。

深夜ラーメンが、僕を壊した夜

きっかけは、ほんの些細な出来事だった。

夜勤明けの仮眠を経て、友人と夕食をとった。
特別な話題もない、普通の時間。
世間一般で言うところの「健全な社会生活」に、きちんと収まる数時間。

そのまま帰宅して、僕はブログに向かった。
書くつもりはなかったはずなのに、気づけば画面を開き、言葉を並べていた。
一区切り、また一区切りと続き、時計を見たときには深夜3時を回っていた。

後から聞いた話では、友人はその後さらに別の知人と合流し、
車を出して、少し遠くまでラーメンを食べに行ったらしい。

その話を聞いた瞬間、
自分の中に奇妙な感覚が立ち上がった。

羨ましさでも、否定でもない。
ただ、自分の状況を、少し高い場所から見下ろしているような感覚。

「……俺、少しおかしいんじゃないか?」

そう思ったのは、行動そのものではなく、
それを冷静に観測している、もうひとりの自分に気づいたときだった。


ズレを知った夜

いまの社会の快楽構造は、ドーパミンを基盤にしている。
わかりやすい報酬、手軽な満足、刺激の連続。
即時性が高く、共有しやすく、消費しやすいものが「正解」になる。

でも僕は、そこにうまく乗れない。
というより、そもそも惹かれ方が違う。

僕の快楽は、
緊張と集中が持続し、思考が内側に折りたたまれていく過程にある。

没頭、錬磨、反復、自己観察。
誰に評価されるわけでもなく、
成果がすぐに可視化されるわけでもない時間に、黙々と潜っていく。

それを、長いあいだ「当たり前」だと思ってきた。
好き嫌いの問題ではなく、ただの性質だと。

けれど社会の側から見れば、
それはしばしば「不自然」や「ストイック」と呼ばれる。

外から見れば修行。
僕にとっては、呼吸のような日常。

その差に、あらためて身体が震えた。


なぜ「普通」になろうとしていたのか

思い返せば、違和感はずっと前からあった。
子どもの頃から、輪の中心にいながら、どこか一歩引いた場所に立っていた。

それでも僕は、「普通」になろうとした。
違和感を感じるたびに、自分の側を調整してきた。

今になって思うのは──
僕は、周囲に適応する力が高すぎたのだと思う。

ズレを察知するのが早く、
それを「自分が間違っている」と処理してしまう癖があった。

それは生き残るための戦略だった。
場を壊さず、摩擦を起こさず、関係を保つための方法だった。

その時点では、確かに必要だった。

ただ、40年という時間をかけてようやく、
「本当は、ずっと抑えていたんだ」と
自分に対して正直になる準備が整った。


ブログは“新しいこと”ではなかった

最近、ブログに深く潜っている。
けれどそれは、挑戦というより回帰に近い。

かつて無意識にやっていたことを、
いま、意識的に拾い直している感覚。

これは新しい熱ではない。

「忘れていた自分を、ようやく思い出した」

昔できなかったことを、今やっているのではない。
昔すでに始まっていたことを、
今の視点と力で、もう一度手にしているだけだ。


看護師という道を通って

いまの感覚では、
看護師という仕事をこの先も続けていくのは難しいと思っている。

けれど、それを否定しているわけではない。

人が壊れていく現場を見続けてきたこと。
言葉にならない感情に、日々触れてきたこと。

それらは報酬ではなく、
「人の限界点に触れ続ける経験」だったのだと思う。

そして、その限界を知ったからこそ、
今は、言葉という距離のある手段で向き合いたいと感じている。

仕事は終わっても、意味は残る。


言葉は届くだろうか

ここまで構造を持った言葉が、
どれほど人に届くのかは、正直わからない。

ただ、ごく少数でもいい。
同じような違和感を抱えている誰かに、
そっと手を置くように響くのなら、それで十分だと思っている。

大勢に広がらなくていい。
たった一人に、深く届けばいい。


再起動の夜に

もし20歳のとき、
「ひとりでも進んでいく術」を知っている人に出会っていたなら──
たぶん看護師にはなっていなかった。

きっと、別の道を静かに歩き出していたと思う。

でも、それは後悔ではない。
ただの「別の可能性」だ。

抑えていた自然な自分が、
深夜ラーメンという他愛もない出来事をきっかけに、
そっと姿を現した夜だった。

忘れていた自分に出会い直した、
そんな夜の記録。


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