違和感から始まった
上高地に行って、ふと感じた。
「あれ……この辺におる女の子、なんかかわいくないか?」
しかもそれは一人や二人の話じゃない。全体的に、空気が違う。
同じ旅の中で南京町にも立ち寄ったけど、そこでは正直そんな印象はなかった。
なんなら、男の子も女の子もファッション的に言えば“平均値”が低い。
服装は適当で、どこかくたびれてる。
──この差はいったい何なんや?
単なる偶然や主観のせいかと思ったが、どうもそれだけではない。
実際、上高地で見かけた男の子たちは、緩めのシアー素材を自然に着こなしていた。
女の子たちも、歩きやすさを意識しつつ美意識がにじむ服装をしている。
「これは、人の容姿の話じゃない。場が、人を選んでいるんや──」
そう思い至ってから、頭がスッと整理された。
上高地というフィルター

上高地は、誰でもフラッと行ける場所ではない。
まずマイカー規制がある。車で途中まで行っても、そこからはバスやタクシーに乗り換える必要がある。
つまり「行こう」と思ってから、ある程度の計画が必要や。
さらに現地に着いてからも、河童橋から大正池まで往復で8km弱。
歩くことが前提。ヒールや重たい服装ではしんどい。
結果、体力のある層、健康的な層が自動的に選ばれて残る。
そして自然光と景観が完璧に整っている。
写真を撮りたい。記録に残したい。
そう思わせる土地であることが、**SNS経由での流入層(感度高い人たち)**をさらに呼び込む。
ここに来るには、「金・体力・時間・健康・美意識」のどれかを欠いていては難しい。
それらを揃えた人間だけが、無言のフィルターを通過してこの場に立つ。
──美的層の自然な選別装置、それが上高地なのだ。
南京町は“無選別”の雑踏

対して、南京町。
元町駅から歩いて5分。
飲食がメイン。服装なんてどうでもいい。
年齢層もバラバラ。
中高年の比率も高く、健康的とは言いづらい人も多い。
ファッション的にも、もはや“見せる”文化とは無縁。
ここでは、人は選ばれていない。
誰でも来れる。誰でも歩ける。誰でも食べられる。
──だから、美的層は“溶けてしまう”。
その差が、上高地との違和感としてはっきり出てくる。
美的層とは何か?
“美的層”というのは、容姿の良さだけの話ではない。
・健康であること
・服装や身だしなみに意識があること
・写真や記録に残されることを意識する感度
・ある程度の経済的余裕と時間の自由
──これらが合わさって、**「目に映ったときに美しく見える層」**のことだ。
それは個人の努力や才能だけで成るものじゃない。
**「どこにいるか」**で、その層の密度は大きく変わる。
美は、個人の属性ではなく“場の密度”である
容姿のいい人が集まる場所があるのではない。
“集まったときに、そう見える場”がある。
そしてその場には、フィルターがかかっている。
アクセス、体力、情報感度、余裕──
そのすべてをパスした人たちが集まった空間だけが、
「美しさの密度が高い」と錯覚できる場所になる。
上高地は、そのひとつだった。
君が美しいと思ったその人たちも、
偶然そう見えたわけじゃない。
──選ばれて、そこに立っていたのだ。
あとがき
僕がこの違和感を言語化したくなったのは、
単なる「美人がいた」とか「映えがすごかった」とか、
そんな話じゃ終わらせたくなかったからだ。
街と人の関係、場所が人を選ぶ構造──
そんなテーマに、ふと気づかされた上高地だった。
同じような感覚を持ったことがある人がいたら、
ぜひ読後の感想を教えてほしい。
すべての記事は無料でお読みいただけます。
このリンクは「支援」のための入り口です。
小さな感謝とともに、静かな旅をつづけています。──孤岳より
※codoc(Stripe社提供)を利用しています。



コメント