花火の下の一瞬──チェンソーマン〈レゼ編〉映画レビュー

エッセイ|コラム

※この文章では映画〈レゼ編〉の大切な場面について触れています。
まだ観ていない方は、できれば鑑賞後に読んでいただければと思います。

戦闘の烈しさを超えるもの

まず触れたいのは作画と音響の熱量だ。
MAPPAの画面は尋常じゃない。
雨粒が弾ける細やかさ、爆発の火花、校舎に響く足音──
一瞬ごとに密度が詰まり、観客を窒息させる。
牛尾憲輔氏の音楽も、無音から轟音へ、心拍を操作する。
花火の色彩と爆風の黒煙が同じ画面に並んだとき、
「戦闘を観る」というより「体験する」に近い感覚を与えられる。

だが本当に胸を突いたのは、その烈しさの後に訪れる沈黙だった。

告白と沈黙

花火の下、二人きりの静寂。

「好き」とレゼが告げる。
だがデンジは即答しない。
わずかな間、言葉を探す。
衝動に任せて飛びつくのではなく、
胸の奥に残るマキマへの執着や、
自分の心に拠り所を持てない迷い、
まだ幼さの残る戸惑いが滲んでいた。

その一瞬の逡巡を、レゼは確かに感じ取った。

デンジが語った未来

レゼに向けてデンジは言う。
「仕事ができるようになって、家族みたいな仲間ができて」
それはただ腹いっぱい食べたい、と言っていた少年の夢の延長線ではない。

アキやパワーと過ごす日々が“当たり前の生活”に近づきつつあったからこそ出てきた言葉だった。
この瞬間のデンジは、衝動のままに生きる存在ではなく、
小さな未来を望む人間として、成長した言葉を持つに至っていた。

レゼの直感

「でも、好きな女がいるんでしょ」
この一言は、レゼというキャラクターを象徴する。
爆弾の悪魔として人を欺き、兵器として生きる冷徹さを持ちながら、
同時に一人の少女として人の心の微細な揺れを察知してしまう繊細さ。
兵器と人間、その二面性がこの台詞に凝縮されている。

彼女自身もまた「普通の学校生活」を奪われてきた。
だからこそ16歳で学校に行っていないデンジの境遇に本音で驚き、
同時にそこに自分の失われた青春を重ねた。
この直感には彼女自身の悔しさと羨望がにじむ。

戦闘と心の機微の二重奏

ここが藤本タツキ氏の恐ろしいところだ。
圧倒的な戦闘作画を積み重ねておきながら、
人の心を最も深く裂くのは、無音の数秒だ。
冷酷な破壊、爆破、血飛沫。
そのすぐ後に差し込まれる、恋と疑念のやり取り。
暴力と優しさ、衝動と理性。
その両方を同じ作品の同じキャラクターに宿らせる。

戦闘は観客を昂らせ、沈黙は観客を切り裂く。
この往復こそが藤本タツキ氏の「見せ方」の核心。

喫茶店の花束

結末は喫茶店のシーンに収束する。
デンジは花束を持ち、ただ待っていた。
戦闘に勝利した少年ではなく、
恋を掴み損ねた人間として。
レゼは現れない。
だがその「来ない」という事実が、
二人の恋を永遠の「もしも」に変える。
花束は敗北の象徴であると同時に、
人間としての尊厳の最後の証だった。

孤岳的解釈

孤岳としてこの場面を振り返れば、
これは単なるラブシーンではない。
人が「生きたい」と願った一瞬の輝きが、
暴力と任務の闇に押し潰される、その儚さの証明だ。
戦闘の熱量と心の機微。
その落差が生む痛みこそが美しい。

そして思う。
もしレゼが喫茶店に来ていたら、デンジは一緒に逃げただろう。
だが幸せは続かない。追跡と任務の現実が二人を裂いたはず。
だから来なかったことこそが、物語を最も美しく閉じた。

結び

チェンソーマン1部は、藤本タツキ氏が完全にゾーンに入って描いた作品のように、魂を揺さぶる力を持っている。
戦闘描写と心理描写が一点で交わり、
人間の本能と優しさが同じ刃に宿る。
レゼ編はその象徴であり、映画はその精度を極限まで高めた。

花火の下の沈黙。
この数秒こそが、戦闘を超えて心を撃ち抜く「本当の見せ場」だった。

この映画は、派手な戦闘シーンやキャラクターの可愛さだけではなく、
一瞬の感情やすれ違いの永遠に美しさを感じる人にこそ見てほしい。
かつての恋の儚さを知る人、
物語の中に“人間の心”を探す人、
そして創作に魂を込めたいと願う人に。

そうした人ほど、レゼ編の花火の下に隠された深い感情の波に打たれ、
胸の奥で何かが静かに点火するはずだ。


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小さな感謝とともに、静かな旅をつづけています。──孤岳より

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