Instagramの中毒性に、静かに違和感を覚えた話― スクロールという麻酔のなかで、静かに立つ

エッセイ|コラム

Instagramという“無限脳内スナック”に火を置く

ブログへの小さな導線として、Instagramを使ってみることにした。

派手な投稿や数字競争には、昔から馴染めなかった。 でも、だからこそできる発信のかたちがある気がしている。

Instagramを10年ぶりに開いて感じたのは、 この場所は、あまりにも速く、刺激に満ちていて、 そのぶん、何かがすり減っていくような感覚だった。

きらびやかで、鮮やかで、そしてどこか空虚。
心がじわじわと、遠ざかっていくのを感じた。

無限脳内スナック──スワイプと承認の設計

Instagramは、無限にスワイプできる。 映像と写真、いいね、既読、通知の数字。

ほんの数秒で、次へ次へと流れていく。

それらは視覚を満たすけど、 気づけば“静けさ”のようなものがどこかへ消えていた。

ちょうど、軽くて甘いスナック菓子みたいに。 食べてる間は心地よくて、満たされたようで、 でも終わってみると何も残っていない。

Instagramの根っこには、 この“ドーパミン設計”があるんやと思う。

火を置くということ

だからこそ、この場所に「火」を置いてみたくなった。

うるさくない写真。短く抑えた言葉。 ただそこに在るだけの静かな投稿。

伝えたい、というよりも、 「残したい」という感覚に近い。

誰かのスクロールの途中で、 ふと止まりたくなる灯火のようなもの。

そこに確かに在るけれど、 主張しすぎず、押しつけず、 ただ静かに燃えている──そんなものを目指している。

残すという投稿

投稿するのは、日々の中にある静かなものたち。

道具の佇まい。身体の記録。山の風景。 あるいは音楽の余韻。

それぞれに、即時性や派手さはない。

けれど、見た人の中に「気配」が残るような、 そんな投稿をしていきたいと思っている。

キャプションも、語りすぎない。

言葉の中に、その人の輪郭や考え方が、 うっすらと見えてくるくらいでいい。

“届ける”ではなく、“置いておく”。 その距離感を、大事にしたい。

SNSに沈まずに立つ

僕はInstagramのタイムラインを、ほとんど見ない。 通知も切っているし、フォロワー数も気にしない。

投稿したら、できるだけ離れる。

この場所は、戦うための場じゃない。 競うためでも、成果を叫ぶためでもない。

火を置いて、離れる。

それが、僕にとってのSNSとの関わり方。

深く潜りすぎない。 埋もれない。

無数のスナックの中に、 ほんのひとつの保存食のような投稿があってもいい。

いつか誰かが、それを見つけてくれたなら。

それだけで、もう充分だと思える。


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小さな感謝とともに、静かな旅をつづけています。──孤岳より

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