見えない潮目
選挙の日。
駅前の街路樹は、いつもどおり風に揺れていた。
誰もが急ぎ足で、スマホの画面にまなざしを落とす。
──その一方で、静かに投票所へ足を運ぶ者たちもいた。
僕も、そのひとりだった。
何かを変えたいというほどの、強い感情ではない。
けれど、変わらなければならない“構造”を、
もう無視できないという感覚が、胸の奥に火を置いた。
テレビでは、
「与党は◯◯議席」「野党は苦戦」。
そんな数値ばかりが並び、
まるで勝敗だけがすべてかのように報じられていた。
けれど、そのとき僕のSNSには、
候補者自身の言葉が、友人たちの投稿が、
手触りのある熱として流れていた。
どちらが現実なんだろう──。
その問いは、
「誰に投票するか」というよりも、
**「どこに現実を感じるか」**という選択だったのかもしれない。
そして、それを選ぶ力を、
いまの若者たちは、静かに持ち始めているように思えた。
オールドメディアの温度差
テレビは、静かだった。
新聞もまた、既視感のある文字列で埋め尽くされていた。
何度も繰り返される「投票率低下」。
「若者の政治離れ」。
まるで、その構造自体が、定型文として保存されているかのような語り口だった。
けれど、それはもう“現在”ではなかった。
SNSでは、候補者本人が歩いた道を投稿し、
支援者たちは、淡々と演説予定や現場の声をシェアしていた。
バズるでも、喧噪を生むでもなく、
静かに、確かな熱を持って。
そこにあったのは、言葉の意図ではなく、
感度そのものだった。
オールドメディアとSNS。
ふたつのメディア空間は、
もはや、同じ時間軸のなかに存在していないのかもしれない。
可視化されない力学
数字は、語らない。
いや、数字は語ってしまうからこそ、
その奥にあるものを取りこぼす。
投票所へ足を運んだ若者の姿は、
集計にも、報道にも、記録にも残らない。
だが、それぞれの選択の背後には、
確かな拒否や、違和感が込められていた。
「誰かが変えてくれる」という期待ではない。
むしろ、
「もう任せてはおけない」という、静かな自立の意思。
SNSで見た、30代の候補を支援する若手たち。
「選ぶこと」ではなく、「一緒に動くこと」へ向けられたエネルギー。
その選択は、数字では測れない。
けれど、
時代が揺らぐ“重心”は、そちらに傾きはじめている。
構造としての分岐点
見えているものが、現実とは限らない。
むしろ、見えているものが、“旧い構造の残像”であることは、
いまの社会で、最も見逃されやすい視点だ。
オールドメディアは、構造的に「発信者が中央にいる」設計だった。
SNSは、「誰でも端から声を投げられる」仕組み。
この違いが、
情報の温度、速度、届く範囲、
そして「何を信じるか」の感覚に、
決定的な差を生んでいる。
それは、ただのメディアの違いではない。
時代設計そのものの断絶や。
そして若者たちは、
“その設計の裂け目”に、最初に足を踏み入れた存在かもしれない。
終わりのない選択肢へ
「誰に投票するか」だけが問われていた時代は、終わった。
これからは、
**「何を受け取るか」「どの構造に生きるか」**が問われている。
だから、選挙という制度の枠のなかに、
「構造への違和感」や「見えない熱量」が入りきらないのは、当然のことや。
けれど、僕は静かに投票した。
それは、信頼でも、怒りでもなく。
ただ、自分の感度を言葉にするような行為だった。
誰にも強く言うつもりはない。
けれど──
選ぶことができる今を、選び続けたい。
それが、この時代に、
唯一、火を置ける場所かもしれないから。
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