風営法改正に思う。「守るふり」が人を縛ることもある

エッセイ|コラム

「守る」という響きの裏に

風営法が改正されたというニュースを見た。
色恋営業は禁止、スカウト行為は違法。
抜け出せないようにされた人を、法で守るのだという。

たしかに、悪質な構造はある。
売掛金を背負わせ、風俗に流し、人生を食い物にするような仕組みは、潰されて然るべきだと思う。

そういった現場では、依存と支配の境界が曖昧で、
相手の感情につけ込んで搾取する関係が、日常として成立してしまっている。
“好き”や“必要とされたい”という想いが、
気づけば借金や身体、人生そのものを差し出すきっかけになっていく。

だから、構造として明確に線を引き、歯止めをかける必要があることも、理解できる。

でも、「守る」という言葉が、どこか綺麗すぎて、僕は引っかかってしまった。

それは本当に、人を自由にする言葉なんだろうか。
それとも、誰かの“弱さ”に印を押す言葉なんじゃないか。
そんな問いが、心の奥に残った。


抜け出せなかったのは、誰のせいか

たしかに、抜け出せない構造はある。
けれど──その抜け出せなさを、「本人の選択」と見るのか、「社会の責任」と捉えるのかで、見え方は大きく変わってくる。

依存には、育ちや環境、タイミングが影響する。
でもそれを誰かのせいにするのも、簡単すぎる気がする。

僕は、抜け出せた側かもしれない。
ただ、誰かに助けられたというより、自分で歩くしかなかっただけだ。

だからこそ、「守るべきは人か構造か」という問いが、今も頭から離れない。


「守る」という優しさのかたち

誰かを「守る」と言うとき、
その言葉の裏には、「自分では立てない人」というラベルが貼られている気がする。

制度が、正義が、倫理が──
そうやって人を囲っていく。

そしてそのうち、囲われた側は、
自分の脚で歩くことすら忘れてしまう。

僕が守るべきだと思うのは、“人”そのものじゃない。
守られるべきは、意思を奪ってしまう構造の方だ。

その構造に気づき、
「守るふり」にただ頷かないこと。
それこそが、本当の優しさなんじゃないかと思っている。


自分の足で立つということ

関係は打算だと、僕は思っている。
友達とは、何かを共有できるかどうか。
異性とは、身体の接点を持つかどうか。
そこに過剰な幻想を乗せてしまえば、たぶん簡単に操作されてしまう。

寂しいという感覚は、正直あまり馴染みがない。
誰かにそばにいてほしいと、心から願った記憶もほとんどない。

それが強さだったのか、ただ鈍かっただけなのかは、今でもよくわからない。

でも、誰かに寄りかかる前に、自分で整えてきたことだけはたしかだ。
そうすることでしか、僕は自分を保てなかったんだと思う。

囲い込む社会に、問いを残す

社会は「支え合い」と言うけれど、
それは本当に“自立の支援”になっているだろうか。
ただの囲い込みになってはいないか。

僕は、変わってると言われ続けてきた。
普通のふりがうまくできなかったし、
当時の自分がどう見られていたかなんて、正直あまり気にしていなかった。

たぶん、周囲からは少し距離を置かれていたんだと思う。

それでも、なんとなく、自分の足で抜けてきた。
誰かに引っ張られたわけでもなく、
誰かの支えをあてにしたわけでもない。

だから今、「守ってあげよう」という声が、
ときに人を腐らせることもある──
そんなふうに感じてしまうのかもしれない。

そのことを、書き残しておきたいと思う。

結び

守られなかったことが、僕を育てた。
その事実に、自覚が追いついたのは、ずっと後になってからだった。

でも今なら、はっきり言える。
それは、決して不幸なことじゃなかったと思っている。


すべての記事は無料でお読みいただけます。

このリンクは「支援」のための入り口です。

小さな感謝とともに、静かな旅をつづけています。──孤岳より

※codoc(Stripe社提供)を利用しています。

コメント