アニメ『ハーモニー』レビュー:管理された幸福と「選ぶこと」の意味

エッセイ|コラム

※この文章ではアニメ〈harmony〉の大切な場面について触れています。
まだ観ていない方は、できれば鑑賞後に読んでいただければと思います。

はじめに

アニメ『ハーモニー』を観た。

これはただのSFでも、バイオテロの物語でもない。

「幸福」「自由」「管理」「人間らしさ」といった、

自分がいままさに考えていることと重なりすぎる作品だった。

■ ユートピアは本当に幸福か?

『ハーモニー』の舞台は、戦争も病気も飢餓もほぼなくなった世界。

全てが最適化・均一化され、人は健康に生きることを“義務”として与えられている。

でもそれは、裏を返せば「選ぶ自由」が消えた世界だ。

思春期にグループ自殺を図った少女たち。

その動機は「不自由な幸福への反発」だったのかもしれない。

■ ミァハとトァン:反発と受容

登場人物のトァンは、人間臭い。

彼女は“当たり前に生きること”を選びながらも、

過去のトラウマと葛藤し続けている。

彼女にとって大切なのは「自分で選ぶこと」。

一方、ミァハは象徴的な存在だ。

人間的な感情というよりは、思想を体現する存在。

本を読み、世界を憎み、冷静に秩序を覆そうとする。

彼女は“ハーモニー”によって世界を変えることを“善”と信じていた。

■ なぜ撃ったのか──「共に生きる」はなぜできなかったのか

終盤、トァンはミァハを撃つ。

この選択の意味は難しい。

もしかしたら、**「その世界を望まないミァハを“その世界”に行かせたくなかった」**という

トァンのエゴかもしれない。

共に生きることはできなかったのか。

それもまた“人間の不完全さ”を描いている気がする。

ラストの展開はバッドエンドとも言えるし、

「人間らしさ」を示す選択だったとも言える。

■ この作品は「今」を映している

日本の描写が異様にピンク色で、徹底的に管理された社会として描かれていた。

これはまさに今の日本の縮図にも見える。

教育、福祉、マナー、健康管理…。

「善意で管理される社会」ほど、恐ろしいものはないのかもしれない。

■ そして、「選ぶこと」が大切だと思う

ミァハのような完全な“思想の器”ではなく、

トァンのように迷い、選び、苦しむ存在こそが「人間」なんだと思う。

だからこそ、「幸福に従順でいられるかどうか」が

ほんとうの意味での自由なんじゃないかと感じた。

■ 最後に

この作品には、明確な答えが提示されていない。

むしろ**「答えのなさ」そのものが、問いとして残されているように思う。

“統制された幸福”がもたらす閉塞感と、

“不完全でも自分で選ぶ”という人間らしさの対立。

それはまさに、現代の日本──あるいはこの世界全体に対する風刺**だろう。

伊藤計劃という作家の特徴は、明確な主張を押しつけることなく、

哲学的・社会的なテーマを「思考するための装置」として投げかける点にある。

それゆえに、表面的な視聴では「よく分からない作品」とされてしまうのかもしれない。

でも、もし今の社会や生き方に違和感を抱えているなら、

この作品は“深く刺さる”はずだ。


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